Wisps

Just Another Journal

2020年6月6日 11ヶ月ぶりに

ここのところ、決まって朝4時頃には目が覚めるのは何故なのだろうか。起きると決まってカーテンを開け、窓も開けて、曇り空に朝焼けの陽がさしていることを確認し、コーヒーを淹れて、マンションの7階から、外を眺めながら、さて、一体何時間寝たのだろうかと考える。睡眠が足りないという気にもならないが、日によっては3時間、4時間しか寝ていないときもある。これで身体が動いているのだから、ありがたいことだ。(感謝の気持ちが向く方向は、いつも決まっている。)

今朝は、Apple Musicでシベリウス交響曲第2番(佐渡裕指揮、Tonkunstler Orchester)を聴いている。今は、それも終わって、アルバム最後の、Finlandiaがかかっている。

ふと思い立ち、昔作った覚えのあったブログの日記をブラウザで開いてみたら、そうした過去の記録が残っているのは、意外と面白いものだと思い、改めてログインをして、こうして書き出した。

過去の日記を振り返ると、やたらめったら、ただただ読む本の数だけを記録していたような気になる。読んでいたことすら既に忘れてしまっていた本も多い。一体、何故読むのか?そんなことも思う。

ただ、以外と面白いと思ったのは、その本を読んでいたときに頭(心)の中にあった、あるいは、浮かんでは消えていった考えや感情のようなものが、書き落とされていると、こうして1年、あるいは2年経って読み返したときに、誰か別の人間の思いのようなものを見ているような気にもなり、「ふーん」と更に感じることがあるということに気づいたことだ。

価値があるのか、無いのかだけで判断をすると、そんなものはたいしてないのだろうと思うが、「私という人間が、ただの一人の存在として、“ただそこにあった”軌跡」がそこにはあるようで、ある種興味深いものだなと思った.

「人間なんてチョボチョボ」という出口さんの言葉を思い出す.

チョボチョボの人生を生きている私が, 1年前も, 2年前も, そして今もあるだけなのだ。その反面,「今」を生きている「私」は, あたかも目の前で起こるあれやこれが、さも一大事のように感じたり、考えたりしながら生きているのだけれども. それはそれで、一つの人生劇場でありながら、どこにでもある、ありふれた人生劇場だというような思いを感じる。

別の視点でいうのなら、改めて、所詮チョボチョボのワタシなのだから、毎日、今という時間に軸に立って、楽しんで生きていないと、せっかくいただいた生がもったいないよな、と感じることになった。

コロナウイルスの影響で、思った以上に自宅でネットに流れてくる「我ファースト」的なコンテンツにさらされる時間が多くなっていたので、それに対して、かなり食傷気味になっていた。焦点を、チョボチョボセルフな時間の記録を残す方向にシフトするほうが、チョボチョボだけれども、個体ユニークであり、限りのある、この今をより大切にできるんじゃないだろうか。